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JAPAN FOUNDATION 国際交流基金[心連心]

日本と中国の若者が未来を共に創る

参加者インタビュー

日中21世紀交流事業に参加された方々に交流を振り返っていただきました

Vol.008 張 倩雲さん

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名前
張 倩雲ちょう せいうん さん

プロフィール
上海市普陀区出身。高校2年生の時、「心連心」の第2期生(2007年9月~2008年7月)として大阪府立夕陽丘高校(大阪市天王寺区)に留学。2009年9月に上海外国語大学日本文化経済学院に入学。現在同大学の4年生。卒業論文の執筆に励む傍ら、2012年10月から上海外聯発商務諮詢有限公司でインターンとして勤務している。6月の卒業と同時に正式に同社に入社予定。

中学校の教師の影響を受け、日本語に夢中に

「実はもともと日本語には全く興味がありませんでした」と笑う張さん。張さんは11歳の時、中国で最初の外国語大学として有名な上海外国語大学の付属中学校に入学した。日本語の勉強を始めた理由は意外にも自分の意思ではなく、両親の希望。勉強を始めたばかりの頃は日本語に全く興味を持てず、英語を勉強したいと反発した時期もあった。
興味の持てない日本語の勉強方法について悩んでいた時に、日本語教師を通じ日本のアニメとドラマを知る。張さんはすぐに「名探偵コナン」や「古畑任三郎」に夢中になり、毎日ドラマやアニメを食い入るように見た。
そんな折、張さんに転機が訪れる。学校を通じ「心連心」プログラムの存在を知った張さんはすぐに応募。当時張さんはまだ16歳。両親は心配しながらも「1年間日本に留学し、色々なことを経験してほしい」と背中を押してくれた。張さんも「不安はあったが、教科書以外のところで日本という国を見てみたい」と思い、留学を決意した。

自主性と協調性の大切さを学んだ学生生活

留学先は吹奏楽部が有名な大阪府立夕陽丘高校。留学して何より驚いたことは学生が勉強だけでなく、部活動で全国大会を目指したり、勉強以外のことにも自主性をもって取り組んでいることだった。獣医、歯医者、教師、結婚——―。目指すものは違っていたが、皆自分の夢をはっきりと持っていた。中国の学生はいい大学、いい会社に入るために勉強漬けの生活が当たり前。張さんにとってこれはまさしく“カルチャーショック”だったという。「これまで勉強しかしてこなかった自分をとてもつまらない人間だと感じました」(張さん)
体育祭では衣装や道具を友人と手作りし、ダンスを披露。「中国にはない体育祭や文化祭などの活動を通じ、忍耐力や協調性を学べるのも日本の学校ならでは」と言う。
中国に比べ授業の内容が比較的易しく、学業面では困る事はなかったという張さん。試験前には友人数名で集まり、お互いに分からない部分を教え合う——―。日本人にとっては当たり前のことでも、最初は驚くことが多く戸惑った。中国ではたとえ友人であっても互いにライバル心を常に持ち、めったに教え合ったりしないからだ。中国の高校とは全く違う日本特有の高校生活を送り、初めて勉強が楽しいと思えた。「皆と成長できるのが、うれしかった」と振り返る。
部活動では剣道部に所属。練習は辛かったが、練習で流した汗はとても心地よく、面を取った瞬間には表現しようのない爽快感がある。剣道部のメンバーと部室の掃除をしたり、部活動の後に「がりがり君」を食べたりしたことは今では懐かしい思い出だ。「当時の部長とは今でも連絡を取り合う大切な親友」。

ホストファミリーとの生活をきっかけに、性格が一変

ホストファミリーを通じて学んだことも多い。言葉や文化の違いに慣れることができず、初めの3ヵ月は家にこもることが多かったという張さん。さらに当時の日本語力では細かいニュアンスが伝えられず、何をするにも四苦八苦。

写真を拡大お節料理を食べて新年を迎えられたこともホストファミリーとの大切な想い出

偶然、校長先生の家に1ヵ月間お世話になった時は奥さんが毎日話し相手になってくれた。思うように伝えられないこともあったが、「ゆっくり話してみて」と言われた時、心がすっと軽くなったような気がした。ホストファミリーの気遣いに応えるために、家のこともよく手伝うようになった 。中国にいた頃は勉強一筋で、家の手伝いは一切していなかったので、小さなことでも人に必要とされていることがうれしかったという。これをきっかけに心を開いた張さんは、性格が一変。この頃から積極的に街に出るようになり、友達もできた。

ホストファミリーと過ごした年末年始、はじめての温泉、ディズニーランド、大好きなアイドルのコンサート――。ホストファミリーとの思い出は語りつくせないほどだ。

悩みぬいて、再び日本へ

写真を拡大沖縄への一人旅では日本文化の多様性を感じた。

約1年間の留学生活を終えた後も、再び日本へ留学したいという気持ちは強く残っていた。東日本大震災の直後で、福島第一原発事故による放射能被害や余震が懸念されていた時期だったが、再び留学を決意。2011年9月から交換留学生として約1年間慶應義塾大学に留学した。別科・日本語研修課程に在籍し、日本語や日本文化を学んだほか、最後の半年は法学部の授業も選択し、国際法や国際経済法などを学んだ。

生活費には困っていなかったが、ファーストフード店で初めてアルバイトも経験。「日本人の勤勉な姿や仕事に対する責任感は中国では習得できないもの」だったと感じている。

人に必要とされる仕事がしたい

12年10月からは上海にある外高橋保税区で、会社の設立、賃貸サービス、税関財務関連などのコンサルティングを手掛ける上海外聯発商務諮詢有限公司(上海市浦東新区)にインターン生として週3回勤務。もともとインターンは大学の単位取得のためで、この時日本語教師を志していた張さんは大学院に進む予定だったという。しかし実際に仕事を始めると仕事が楽しく、卒業と同時に正社員になる予定だ。会社では日本企業を担当としている部署でアシスタントを勤める。仕事を始めたばかりの頃はコピーの取り方さえも分からず、失敗の連続だった。仕事は忙しく自宅で徹夜する日も多いが充実した日々を送っている。日本人の顧客を相手にする仕事は、「心連心」で学んだ日本人の礼儀や協調性が活かされている。ビジネス用語も新たに習得したが、現在も勉強の毎日だ。
しかし日本語教師の夢を諦めたわけではない。「日本語力を高め、最終的にはかつて通っていた上海外国語大学付属高校で日本語教師をしたい。」と目を輝かせて将来の抱負を語った。

写真を拡大日本語を学び続け、将来は母校の教師になりたい。

写真を拡大4年間学んだ上海外国語大学日本文化経済学院で

【取材、文:西見恵(NNA) 取材日:2013年5月13日】

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