参加者インタビュー
名前
樊 雪 妮(はん せつ に) さん
プロフィール
1994年2月24日、湖北省武漢市出身。武漢外国語学校で、第一外国語として日本語を学ぶ。「心連心」プログラムでは、岩手県盛岡中央高等学校に留学(2009年9月〜2010年7月)。高校卒業後、早稲田大学商学部に入学。現在大学4年生。
文化交流のステージから「経済」交流のステージへ
「本日はお足元の悪いなか、はるばる早稲田までお越しいただいて申し訳ありません」
晩秋の霧雨がけぶる、夕方の取材。都内の喫茶店で出会った彼女との初対面の第一声がこれだった。私たち日本人でも、若い世代の人にはそうそう使えないような完璧な敬語だ。「凄いですね」と素直に感想を口にすると、「いえいえ。とんでもないですよ」と、やはり完璧なアクセントの日本語で謙遜してみせた。
彼女の名前は樊雪妮さん。かつて2009年に心連心プログラムの第4期生として来日し、岩手県の盛岡中央高等学校で約1年間にわたり学んだ経験を持っている。
「日本での高校生活が自分に与えた変化はとても大きかったですね。知識や価値観の面もそうですが、メガネをコンタクトに変えて、お化粧を覚えたりもしました。高校でたくさん日本人の友達ができて、みんなに教えてもらったんです。帰国するときに『帰りたくない』と思うくらい、盛岡に馴染んでいましたね」
そう語る樊さんは心連心プログラムの修了後、いったん故郷の湖北省武漢市に帰国した。だが、彼女の高校(武漢外国語学校)が日本の早稲田大学からの指定校推薦枠を持っていたことで、やがて半年後に日本への再留学を果たした。早大での専攻は商学部を選び、現在はコーポレートファイナンスを学ぶゼミに所属している。
「早大に留学するか、北京の外国語大学に進学するか、最後まで悩みました。でも、盛岡を離れるときに『また日本へ来て、中日交流に貢献したい』と考えていたのを思い出して、留学を決めたんです。専攻に商学部を選んだのは、『日本語の語学力だけが専門の人』になるよりも、実学の知識をちゃんと身に付けておきたいと考えたから。最初は知識ゼロからのスタートでしたが、これも挑戦なんだと思ってがんばりました」
樊さんは現在20歳だが、中国で5歳の時に小学校に進学しているため、学年はすでに大学4年生である。早大商学部といえば、将来の日本を担う経済エリートのタマゴたちが学ぶ場所だ。ゼミのメンバーにはエネルギッシュな男子学生が多いという。
「とても早大らしい雰囲気のゼミだと思います(笑)。男の子が多くて、バリバリの体育会系。勉強するときは何日も徹夜するくらい集中する一方で、ゼミの飲み会は『4次会』まであります。昔の(モーレツ社員の時代の)日本企業みたいですよ。日本の学生の強固なチームワークと、ひとつのことに努力する集中力は、本当に凄いと感じます」
もっとも、「モーレツ社員」の早大のゼミの学生たちとはいえ、一昔前に多かったような「バンカラ」的な気風は薄い。いまどきの早大生はジェントルマンのようだ。
「エネルギーは凄いけれど、常識的な人が多くて、女の子には無理をさせないカルチャーがあります。細かい気遣いが、すごく日本らしいと感じています。日本人は他人に迷惑をかけない意識が強い。こういうところが、私はすごく好きです」
現在は卒業論文に取り組んでいる。テーマは企業の株価に関する内容であるという。
ハードなアルバイトに挑戦する「実験」
「大学生活で一番苦労したこと? ……うーん、実は大学2年生のときに半年間続けたバイトです」
私が話題を変えてみたところ、ちょっと意外な答えが返ってきた。てっきり、ゼミでの研究や卒業論文、もしくは彼女が打ち込んできた日中学生交流活動(後述)の話が出るのかと思ったからだ。
「自分には何に適性があるかわからなかったので、とにかく『仕事』をする体験を積んでみたかったんです」
日本での大学生活に慣れてきたころ、樊さんは生まれて初めてのアルバイトに挑戦した。事情をよく知らないまま選んだバイト先はアルバイト従業員に対する管理体制は非常に厳しかった。
「社会的なマナーを学んだと思っています。とにかく大きな声であいさつする! すばやく動く! 服は5秒でたたむ! 朝は7時15分に必ず職場へ行って、2時間の清掃をしなくてはいけません。1人の担当範囲は140平方メートル。売り場に入る前には全員でスローガンを暗唱して……」
日本に数あるアルバイトのなかでも、かなりキツい仕事内容だといえるだろう。事実、他の日本人学生バイトには、職場の雰囲気に飲まれて大学を休学してまで働く人がいた。また、正社員昇格を目指しているフリーター従業員には、本人が胃の病気で倒れても職場にやって来るような人までいた。一方で店舗に来るお客さんには、いわゆる「クレーマー」も少なからずいたという。
樊さん自身、「あれは『ブラック企業』だと思いました」と、冗談交じりに振り返る。事実、大学での講義中にまで携帯に電話が掛かってきて、高圧的な口調で出勤を求められることさえあった。
同年の夏に中国へ帰国する用事があり、このアルバイトは半年で退職したが、まさに驚くべき日本社会での経験となった。ブラック企業、パワハラ、クレーマー、フリーター問題……。私たち日本人にしてみれば、外国人留学生にはあまり見せたくない現代日本の社会問題ばかりだ。
「ハードな環境に自分の身を置いてみて、それでも自分が『日本が好き』でいられるかの実験だったと思うんです。結果的に出した答えは、それでも私は『日本が好き』でいられた、ということでした。辛かったけれど、いい経験です」
そう言ってにっこり笑う。
心連心プログラムでの留学時代を含めれば、樊さんの日本滞在経験はのべ5年間にわたり、すでに人生の時間の4分の1を占めている。この国の社会や人々の良い部分も悪い部分も、彼女はしっかりと理解しつつある。
その上で、樊さんは「日本が好き」だと言うのだ。
「文化交流」から「経済」へ交流の新しい形
樊さんの大学生活の後半を彩ったものに、2012年12月に結成された日中学生交流連盟での活動がある。
これは、日本政府による尖閣諸島の国有化決定と、中国国内での大規模な反日デモの発生を受けて日中関係が極度に緊張した同年、両国の新しい形での相互理解と友好交流の促進を目指して発足した学生団体だ。もともとあった「日中学生会議」「京論壇」「京英会」「LEAF」「日本青少年中国語友の会」「心連心OB・OG会」「日中学生交流団体 freebird」「OVAL」などの8つの学生交流団体が、より大きな規模で活動を進めるために連携して結成された。
「私は『心連心OB・OG会』の代表として、連盟の立ち上げに関わりました。活動として、日本の学生・中国の学生・日本にいる留学生の三者を集めた合同発表会や報告会を定期的に開催しています。日中交流に関心のない人まで広く巻き込んで、日中交流の「パイ」自体を増やしていく。これが連盟のミッションです」
もともと、日中交流に携わりたいという思いは、彼女が心連心プログラムに参加して盛岡中央高校で学んでいた頃から強く持っていた。日中関係が緊張している時期だからこそ、自分の思いを形にするべきだと考えた。
「去年、自分が日中学生交流連盟の活動のなかで一番深くかかわったのが、夏の『リードアジア』でした。私は実行委員だったのですが、中国側の参加者の1人が急用で来られなくなったことで、一参加者としても討議に出ることになりました」
2013年夏のリードアジアでは、日中トップレベルの学生有志23人が6日間にわたって合宿し、企業訪問・討論会・交流活動などをおこなった。共催には国際交流基金日中交流センターも名を連ね、大日本印刷・ソニー・資生堂など、日本の名だたる大企業も訪問し企業文化に触れた。
「日中交流のチャンネルは、政治・経済・文化交流の3つがあります。このうち、学生が力を発揮できるのは文化交流でしょう。なので、そこを最大限広げていきたいと考えました」
結果、準備段階から当日まで両国の調整役として動き続けた樊さんの活躍もあり、イベントは成功裏に終了した(4年生になった彼女が第一線から離れた今年2014年には、リードアジアは参加者数・日数ともにより規模を拡大し、日中学生交流連盟の行事として定着しつつある)。
――ゼミでの研究、驚きのアルバイト経験、そして日中学生交流活動と、未知の経験が盛りだくさんだった彼女の大学生活も、間もなく終わりを迎える。卒業後の計画を尋ねると、日本に残って働く予定だという。
「まだまだ遠い『夢』かもしれませんが、大学で学んだことを活かして、いつか日本の中小企業の中国進出を支援する仕事に携わりたいと考えています。でも、夢を叶えるためには、スキルと経験と人脈が必要になるはず。これからの努力次第ですよね」
樊さんはそう語る。
「文化交流」の舞台で日中交流を進めてきた学生のステージから、「経済」での交流を目指す社会人のステージへ――。彼女の夢は、これからもさらなる高みに向けて羽ばたき続ける。
【取材を終えて】
弱冠20歳とは思えないほど、落ち着いた口調でこれまでの学生生活と将来の夢を語った樊さん。就職活動時に外資系企業の選考に参加した折に目にした、各国のグローバル人材の姿にも非常に大きな刺激を受けたという。2015年樊さんはいよいよ社会人となる。社会人生活のなかでも、最も厳しいとされる最初の1年目をどう乗り越え、心連心OGとしての個性を活かした上で日本のビジネスシーンにどう適応していくか――。新たな課題にも、彼女はきっと持ち前の勤勉さと利発さを武器に乗り越えていくに違いない。
(取材・文 増田聡太郎 取材日:2014年12月25日)