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JAPAN FOUNDATION 国際交流基金[心連心]

日本と中国の若者が未来を共に創る

参加者インタビュー

日中21世紀交流事業に参加された方々に交流を振り返っていただきました

Vol.032 閻 亜光さん

写真を拡大国際交流基金での取材に、個性的なファッションで登場。「かわったものを着たい。(着ているものが)人とかぶっているのは、気持ち悪い」というところが、いまどきの中国の青年らしい。

名前
閻 亜光えん      あ こう さん

プロフィール
  1990年生まれ。山西省太原市出身。太原市外国語学校の高校2年のとき、「心連心・中国高校生長期招へい事業」第2期生として、2007年9月から約1年間、秋田明桜高等学校に留学。
  帰国後、太原市外国語学校を卒業したのち、2009年9月より立命館アジア太平洋大学国際経営学部に進学。2014年6月、日本のリゾートホテルのグループ会社に入社。山梨のホテルで1年間の研修を終えたあと、2015年6月から北海道のリゾートホテルに正式配属された。

個性的なファッションのホテルマン


写真を拡大大学で茶髪に染めていたころのファッション。染めた理由は、「イメージを変えたら、それまでのよくないことを全部忘れられるかなと思って」とのこと。大学では同級生などと議論になることが多かった。譲らない相手には、自分から譲る。すると「くやしい気持ちでストレスがたまり、気分を変えたかった」のだという。

   「はじめまして、閻です」

  東京にある国際交流基金の会議室で、先に来ていた閻亜光さんが立ち上がった。今年25歳。来日8年目で、現在、北海道のリゾートホテルでホテルマンをしている。

  そう聞いていたので、彼の個性的なファッションに思わず面食らった。ストライプのTシャツにオーバーオール、シャネルのロゴが溶けたような大ぶりのネックレスを首から提げ、足元にはキャラクター柄のスリッポンといういでたちだ。

  七三にわけた黒髪が、唯一、ホテルマンらしさを彷彿とさせた。以前は茶髪だったが、「ホテルは規則が厳しいので、黒髪に戻しました」と、流暢な日本語で話す。

  職場のホテルには外国人客も多く、日本語以外に英語と、大学で学んだ韓国語を話し、フロントから客室、レストランまで一通りの業務をこなしながら、忙しい日々を送っているそうだ。

  取材時は休暇中で、大学時代の友達の誕生日パーティに参加するため上京していた。こうして日本各地にいる友人と連絡を取り合い、ときどき会っているという。

初の日本留学、修学旅行で号泣したことも


写真を拡大就職してからは一転して、黒髪にスーツの毎日になった。今はフロント業務もすれば、ベッドメイキングもする。しかし、閻さんはもともと、コミュニケーションスキルで人を楽しませるようなサービスにあこがれて、サービス業に入った。「自分はこんなに頭いいのに、毎日、ベッドメイキングなんて……」という気持ちもないわけではないが、何事も経験だとして勤しんでいる。

  友達も多く、いまではすっかり日本になじんでいるように見える閻さんだが、2007年に初めて、秋田の高校に留学したばかりのころは、言葉もあまりできず、「本当につらかった」と振り返る。

  来日から2カ月ほどして修学旅行に行ったときのこと。とても楽しみにしていたのに、行きたいところに行けず、さらにコミュニケーションの齟齬から、お風呂の時間に自分だけ遅れてしまった。風呂あがりのクラスメートたちを前に、「透明人間になったみたい」な気がした。たまらず、宿泊先から中国の両親に電話をかけ、大泣きしてしまったそうだ。

  それでも次第に日本語を覚え、何でも体験して日本を知り、友達を増やしていったのは、持ち前の負けん気と自立心の強さからかもしれない。実は閻さんは中学時代から一人暮らしをしていたという。中国でもかなり珍しいケースだ。

  学校が少々遠かったことと、公職についている両親が多忙すぎてほとんど家にいないこともあり、平日は学校の近くに借りたマンションで暮らし、週末は自宅に戻るという生活だった。それでも不良になることもなく、高校の日本語コースではいつもトップの成績だったと、閻さんは話す。

大学で再び、日本へ


  1年間の日本留学は、ようやく生活になじんだところで帰国することになった。この経験を活かしたいと、半年後に中国の高校を卒業したのち、再び、日本の地を踏んだ。今度の留学先は大分の立命館アジア太平洋大学。奨学金を得ての進学だった。

  「とてもインターナショナルな大学で、やりたいこともできたのでよかったです」と閻さんは話す。寮やクラスの半数は留学生で、専攻では、韓国の先生についた。

  また入学後、日本でやってみたかったアルバイトを始めた。焼き肉屋で週3~4回、1日5時間働いて、給料は10万円ほどになった。

  「最初の給料で、母親には6、7万円くらいの時計、父には財布を買いました」

  初のプレゼントということで奮発したつもりだったが、両親には逆に、「無駄遣いだ」と責められた。その上、「体に悪い」とアルバイトを反対され、結局、学校での勉強と活動に専念するようになった。

国際色豊かな学風の中、日中の考え方の違いを知る


  2年生からは、オープンキャンパスを主催する団体で、キャンパスツアーを企画したり、TA(ティーチンクアシスタント)の団体で、授業後、小クラスを受け持ち、その日の授業のポイントをレクチャーしたりした。

写真を拡大日本、中国、韓国の友達に祝ってもらった誕生日。こんな風に日本で「国際人」としてなじむまでには長い道のりがあった。心連心の後輩へのメッセージは、「1年間で楽しみたいことがあれば、何でも楽しんでほしい。本当の日本にはなじめないと思うけれど、日本で経験できたものを自分のものにしてほしい」。

  寮長もしたことある。なにしろ各国からの学生たちが集まった寮である。「みんなの意見を聞いて、まとめないといけないのは大変でした」というので、「まとめ役が得意かと思った」と返すと、閻さんは「全然違う!」と首を振った。

  「一人のほうが、自分が正しいと思ったことをすぐにやれる。みんなの意見を一つ一つ聞くよりはやいです」

  実は、閻さんは自他ともに認める負けず嫌いで、主張も強い。自分の意見はズバズバという。幸い、大学は国際色豊かな学風で、意見を述べても、受け入れられる環境があった。友達は「『閻君は物事をはっきり言う人』と理解してくれていて、それにはすごく感謝しています」と閻さんは語る。

  それでも、主張が通らないことも当然あった。

  「TAで、こういう教え方をしたら一番伝わると思って、先生に相談しても、その教え方はよくないと言われて、実現できないこともありました」

  そうした経験の中で、自分の考え方も変わってきたと、閻さんは話す。

  「以前は、絶対自分が正しいと思っていて、問題があったときは、いつも人を責めていました。でも大学に入ってから、『自分から反省してください』とばかり言われて、自分の何がだめなのか考えてみるようになりました」

  このころには日本語も上達し、日本と中国の根本的な考え方の違いについて、深いレベルで考えるようになった。

職場での衝突


写真を拡大職場の日本人の仲間と遊びに行ったディズニーランド。個性の強い閻さんだが、どこに行っても友達ができるのは、彼の魅力の一つだろう。高校留学時代、連休中にショートステイしたホストファミリー宅の祖父母には、本当の孫のように可愛がってもらった。今でも交流が続いていて、年に1回会いにいくほか、季節の果物などを贈っている。

  それでも「はっきりと意見を言う」というスタンスは、社会人になった今も変わっていない。

  「上司に対して、反発もしますし、正しいと思ったことは言います。それに対して、意見を言ってくれれば、理解します。そうして話をしてゆくうちに、ベストなやり方をみつけられたらいいと思うんです」

  しかし、会社で年配のスタッフと衝突してしまったこともある。そのとき先輩から言われた。

  「自分が100%正しいとしても、時には自分から謝って、職場の人間関係は良くしておいたほうがよい。社会人にはそういう面がある」

  それで謝罪の手紙を書いた。「正直、くやしかった」と、閻さんは吐き出すように言いながら、「でも頭を下げるときは下げないと、働きにくい部分もあります」と、妙に日本人臭いことを言い出す。

  なにしろホテルマンの仕事では、謝罪も業務の一環だ。こちらに非がないと思うことでも、まずは頭を下げなくてはならない場面もある。「それにはもう慣れました」という閻さんは、「本当に申し訳ございません」と、神妙な顔で頭を下げてみせる。

  ただし、中国語ではいまでも「対不起(ごめんなさい)」と言えない。

挑戦はまだこれから


  将来については、「まだ分かりません」と閻さんは話を続ける。いろいろ考えはあるが、まずは、東京勤務に異動したいと希望している。「都会が好き」という閻さんにとって、最寄りのコンビニまで徒歩2時間という今の職場環境は、少々つらいものがある。

  両親はといえば、「はやく孫を抱きたいとしょっちゅう言っている」そうだ。しかし、今のところ結婚の予定はない。帰省は年に1回ほどで、忙しさゆえにあまり帰れていない。

  閻さんが、日本で「いかになじむか」を模索してきたこの8年間、中国もだいぶ様変わりした。帰国のたびにそれを体感している。おりしも2008年の北京五輪をまたいで、劇的に発展した時期だ。北京から太原までの道のりも、以前は夜行列車で約8時間かかったが、今は高速列車で、3時間で着くようになった。

  街にはビルが増え、両親もいくつか不動産を所有している。中国で結婚すれば、その一つに住むことになるだろう。

  「でも今は、日本でも家を買いたいと思っています」と閻さん。「都会は好きだけれど、東京は人が多すぎる。成田空港に近い千葉がいい」などと夢はふくらむ。もっともまだ、社会人2年目の前半だ。今後、日本で仕事を続けてゆけば、さらに理不尽なことにもぶつかるだろう。その中で、どういう道を進むのか。閻さんの本当の挑戦は、始まったばかりかもしれない。

  【取材を終えて】
  個性と自我の強さを、頭のよさでコントロールしている青年――。これが閻さんの第一印象だった。日本では、閻さんのような人は生きにくいのではないかと思ったが、おそらく彼自身、たくさんの努力をしてきたのだろう。職場で衝突したという年配のスタッフには、メールで自分の考えを説明し、間違っていたら教えてほしいと伝えたところ、理解してもらえるようになったという。そうしたことの積み重ねで、今の閻さんがあるのだ。ひるがえって、日本もまた、国際社会の中で、閻さんのように個性的な人物をいかに大らかに受け入れてゆくかが、課題の一つとなりそうだ。
(取材・文:田中奈美 取材日:2015年6月29日)

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