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JAPAN FOUNDATION 国際交流基金[心連心]

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参加者インタビュー

日中21世紀交流事業に参加された方々に交流を振り返っていただきました

Vol.033 金 松月さん

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名前
金 松月きん    しょう げつ さん

プロフィール
  1989年、吉林省長春市出身。中高一貫の長春外国語学校(吉林省長春市)で日本語を第一外国語として学ぶ。同校在学中の2006年9月~07年7月、「心連心」プログラムの第1期生として山口県桜ケ丘高等学校に留学。
  帰国後は北京第二外国語学院で日本語と中国語の同時通訳を専攻した。同学院を卒業した現在は、企業へのブランドコンサルティングなどを手掛けるグラムコ(東京都)の中国現地法人に勤務している。

悩んだ末、日本留学を決断


写真を拡大桜ケ丘高校の友人たちとの記念写真に納まる金さん(右から2人目)

  「日本語は今まで私をずっと支えてきたもの。その中で日本に留学した1年間は本当に大きな意味があった」中学校入学からおよそ15年間にわたって日本語を学んできた道のりを金さんはこう振り返った。

 &nbsp金さんが日本語に興味を持つきっかけとなったのは、吉林大学(吉林省長春市)で日本語を指導していた叔父との交流だった。自宅近くに住んでいた叔父は、親戚同士で集まって食事をする際などに金さんに日本語を教えてくれたという。「きっちりと勉強するのではなく、叔父さんと遊びながら自然に学ぶという感じ。中学に進むまでに五十音を発音できたんですよ」と振り返る。

  小学校を卒業後、金さんは父親の勧めで、中高一貫の長春外国語学校(吉林省長春市)を受験し、見事合格。幼い頃から身近にあった日本語を第一外国語として学ぶ日々が始まった。

  親元を離れて学校の宿舎に入り、本格的に日本語を学ぶ毎日。時には勉強するのが嫌になったこともあったというが、3年ほどたった高校1年生の後半、金さんは日本への留学を夢見るようになっていた。「言葉を学ぶとともに、日本の文化や習慣などを自分の目で見て、体験してみたいと思うようになった」。

  ちょうどその頃、長春外国語学校の先生から、日本語を学ぶ中国の高校生を1年間日本に招へいし、日本各地に留学する機会を提供する「心連心」の紹介も受けていた。

  やりだしたことはとことんやりぬく性格という金さん。「中途半端にせず、しっかり勉強したい」。そう強く思う一方で、迷いもあった。高校に進学してからは日本語だけでなく、大学受験に向けた学習も本格化させていたからだ。目標としていた大学は、中国の最高学府である北京大学。幼いころから読書が好きだったことから文学部を志望していた。

  「周囲が大学受験に向けて勉強に励んでいる大事な時期に日本へ行っていいものだろうか」。そんな葛藤を抱える金さんに答えを出してくれたのは、父親だった。「外国の文化を体験するのは、感受性豊かな若い時のほうがいい。大学受験は留学を終えてから挑戦しよう」。こう助言する父親の力強い後押しを受け、金さんに迷いはなくなった。

山口県が大好きに


写真を拡大桜ケ丘高校ではカナダからの留学生とも交流を深めた

  金さんが留学したのは、山口県周南市にある山口県桜ケ丘高等学校の特別進学コースだった。大学進学希望者が集まるコースで、クラスメートは20数人いたが、中国人留学生は金さん1人だけ。「当たり前のことだけど、周囲はみんな日本人。その状況に最初はホームシックになったこともあったけど、すごく興奮していた」と振り返る金さん。

  中国で学習していたから日本語でのコミュケーションは基本的に問題なく、持ち前の明るい性格もあって積極的にクラスメートに話しかけて友人を増やしていった。金さんにとって驚きだったのが、中国と日本の学校生活の違いだ。中国の高校生活は勉強が中心。例えば、長春外国語学校では授業が1日8時限もあり、午前8時から昼食の休憩などを挟んで夕方まで勉強漬けの日々だったそうだ。もちろん部活動なんてない。「中学、高校では恋愛も禁止。友人とする会話はテストの点数のことばかりだった」。

  一方、桜ケ丘高校では放課後に同級生や先輩、後輩と一つの部屋に集まっておしゃべりを楽しんだ。話題にあがるのは好きな音楽のジャンルやアイドル、恋愛のことなど。国籍を超えて盛り上がった。友人から日本の人気ロックバンドのCDを借りてファンになったこともあった。「日本の高校生活は中国と比べてのびのびと過ごすことができ、すごくリラックスできた」と金さん。地元の見どころを訪ねたり、日本の文化も体験したりした。

  金さんは1年間の留学期間中、学校関係者の自宅など5カ所にホームステイした。特に思い出深いのが、いまでも「お父さん」と呼ぶ教頭先生の自宅で過ごした日々だ。教頭先生は週末になると自身の家族と一緒に金さんをさまざまな場所に連れ出してくれた。島根県津和野町の美術館に行った時には、ちょうど30万人目の入館者となって新聞記者から取材も受けた。

  瀬戸内海を一望することのできる山へ登ったことも。穏やかな海のあちこちにいくつもの島が浮かぶ多島美の美しさは今でも覚えている。年末年始は家族みんなで紅白歌合戦を見て、深夜に初詣でに出掛けた。お雑煮、年越しそばも食べた。「お父さん(教頭先生)たち一家は私を本当の家族のように接してくれた」と感謝する。

  桜ケ丘高校ではもちろん勉学にも精を出した。特に努力した科目は日本史。ただ、最初は苦手意識が強かったという。「中国では専門に勉強してなかったから、最初はすごく難しかった。歴史的な出来事のあった年号や人物の名前などを暗記するのは大変で、テストの成績も良くなかった」と金さん。だが、分からないことは日本史担当の先生に積極的に質問。先生も金さんをバックアップしてくれ、成績は伸びたそうだ。

  2006年11月には山口県の徳山大学で開かれた日本語弁論大会に出場し、参加した9人の中から最優秀に選ばれた。出場者のうち半数以上が大学生で、さらに日本に滞在している期間は金さんが最も短かったが、ハンディを乗り越えての結果に、当時記していたブログに「すごく緊張したけど、イメージ通りに話すことができ、満足している」と喜びを綴った。

 &nbspこうした経験を通じて、山口県のことが大好きになった金さん。現在、多くの中国人旅行者が東京や大阪など大都市を訪れているが、「東京は人が多いし、せわしそう。山口県は田舎だけど、人は素朴で優しい。留学を終えてから訪ねていないが、お世話になった人にいつか会いたい」と微笑む。

日中の企業をつなぐ


写真を拡大北京第二外国語学院を卒業した金さん(左端)

  中国に帰国した金さんは2008年9月、北京第二外国語学院(北京市)に進学。留学で培った日本語能力をさらに磨きをかけようと同時通訳を専攻した。ただ、実際に体験した同時通訳は想像以上に難しかったそうで、「中国語のスピーカーが話した直後に日本語訳をすることから高い集中力、体力が求められる」。大学卒業後は別の道を歩むことにした。

  現在は企業向けにブランドコンサルティングや空間設計を手掛けるグラムコの中国現地法人でプロジェクトマネジャーとして働く忙しい日々を送っている。「大学時代に生徒会長を務めた時に行ったイベントで企画や運営の楽しさを知った」のが現在の仕事を選んだ理由だという。

写真を拡大「日本語を学び続けたから今の私がある」と話す

  顧客となる企業と自社の日本人デザイナーとの間をつなぐのが金さんの役割だ。顧客は中国の企業が多いといい、金さんが顧客からの要望などを聞いた上で、日本人デザイナーとの間で調整を行う。日本語も中国語も操れる金さんだからこそこなせるポジションで、これまでに中国の飲食やIT関連企業の店舗デザインなどを手掛けてきた。

  「人と人との間に立って良好な関係をつくることは本当に難しい」と感じつつも、「今の私があるのは、日本語を学び続けてきたから。これからもずっと日本語と関わっていきたい」と決意を新たにしている。

  (取材・文:安田祐二(NNA) (取材日:2015年7月12日)

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